関越サービスについて
社長メッセージ
皆様こんにちは。関越サービスの小川和宣(おがわかずのり)です。仕事はもっと楽しくなる!人生ももっと楽しくなる!と思っています。私は、「楽だけどやりがいの無い仕事」より「大変だけど楽しい仕事」がいいと思います。そして、同じように思う仲間と、仕事と人生がもっと楽しくなる会社を目指したいと思います。そのために、会社は、社員の自己実現の場でありたいと思います。社員も社長も自己実現していける会社が理想です。どうせ仕事をやらないといけないなら、楽しんだ方が得ですよね。会社のルールはただ2つです。『ウソをつかないこと』『悪いことをしないこと』そして、「社員の幸せ、社会に貢献、豊かな人生をご一緒に」をスローガンに地域の方から「楽しそうな会社だな」と思ってもらえるような会社にしていくことで、地域を元気にしていく存在になることを目指していきたいと思っております。
株式会社 関越サービス
代表取締役社長 小川和宣
社長プロフィール
2012年 ネパールにて
小川和宣(おがわ かずのり)
昭和46年(1971年)、新潟県西蒲原郡巻町(現新潟市)生まれ。岡山大学大学院経済学研究科修了後、大手バス会社に入社。不動産事業部で分譲マンションの営業、分譲団地・建売住宅の企画開発を担当し、モノづくりの企画デザインと宣伝広告の面白さを知る。好きなテレビ番組は、BSフジ「小山薫堂 東京会議」。会議で、アイディアが転調するかのようにふ くらんでいくのが好き。人と人が集まることで生まれる一期一会の発想は、ひとりで考えていても生まれない。そこに「会議」の醍醐味があると思う。2005年に解離性動脈瘤を発病し療養。療養中に写真に興味を持ち、2013年に写真展開催。「カティ・ラムリ」コニカミノルタプラザ(東京・新宿)、「ネパリ」銀座ニコンサロン(東京・銀座)。
企業理念
経営理念
地域に貢献する人材を育成し、世の中の役に立つ事業を行う
温浴事業部 経営理念
お風呂を通じて人生を幸せに
お風呂を通じて人とつながりたい
私たちは何の仕事をしているか?(ビルメンテナンス事業部)
清掃を通じて、
建物をきれいにし、
人の心を明るくする
心身健康な環境づくり
会社のルール
1.ウソをつかない
2.悪いことをしない
会議の3つの約束
1.否定しない
2.威嚇しない
3.緊張させない
第46期 経営方針
(どういう人を評価するかという方針)
先送りせずに
自分が矢面に立って
解決する
世の中をより良く面白く変化させていきましょう
第46期 品質方針
①モヤモヤやストレスを改善のキッカケにする
②ポジティブな言葉を発する
(お互いが幸せ、前向きになる言葉)
③あきらめず、可能性に知恵を絞る
上記をふまえて品質マネジメントシステムを継続的に改善する
第45期 経営方針
社内の矛盾や問題を出し切って、
新しい世界への扉を開ける
一人ひとりが仕事を通じて、
なりたい自分、理想の自分に
向かいましょう
第45期 品質方針
万事、筋道を立てる
人の顔を立てる(メンツをつぶさない)
協調性が大事
協調性とは、異なる立場、意見、考えを持つ人と協力し、同じ目標達成に向けて行動できる能力のこと
上記をふまえて品質マネジメントシステムを継続的に改善する
第44期 経営方針
楽しい会社をつくりましょう
楽しいというのは、充実感のことをいいます。
楽しい会社で、イキイキ働いて、ご機嫌で生きていきましょう。
第44期 品質方針
いい会社をつくりましょう
① モヤモヤは先送りしない
② 仲間の長所を知る、見る
③ 常に褒めあい、認めあい、助けあう
上記をふまえて品質マネジメントシステムを継続的に改善する
第43期 経営方針
①体験と知恵と元気を発信する
②一致団結する
モメごとは先送りしない
③理想を大切にする
モヤモヤや違和感を無視しない
第43期 品質方針
凡事徹底
【ABCの法則】
A)当たり前のことを
B)バカみたいに
C)ちゃんとやる
上記をふまえて品質マネジメントシステムを継続的に改善する
第42期 経営方針
①土台をしっかり築く
人間味あふれる和をつくる
②まさかに備える
「和戦両様の構え」
話し合いになろうと全面的な争いになろうとどちらでもいいように準備する
③次の種を育てる
コミュニケーションからアイデアをつくる
第42期 品質方針
①ワルイことをしない
②自分にも他人にもウソをつかない
③「感じる力」を仕事に活かせ!
上記をふまえて品質マネジメントシステムを継続的に改善する
会社概要
名 称 | 株式会社 関越サービス |
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所在地 | 【本社】 〒 953-0054 新潟県新潟市西蒲区漆山8700 TEL. 0256-72-8430 FAX. 0256-72-2285 【営業本部】 〒 950-0934 新潟県新潟市中央区女池神明3-8-4 TEL. 025-283-4510 FAX. 025-283-4426 |
設 立 | 昭和54年(1979年)10月11日 |
代表者 | 小川和宣 |
資本金 | 1,000万円 |
【本社】 新潟県新潟市西蒲区漆山8700
【営業本部】 新潟県新潟市女池神明3-8-4
■沿革
昭和54年(1979年) | 関越ビル総業株式会社として創業 |
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昭和58年(1983年) | 小川孫作、取締役会長に就任 小川明彦、代表取締役社長に就任 |
昭和61年(1986年) | 株式会社関越サービスに商号変更 |
平成元年(1989年) | 本社事務所完成移転 |
平成7年(1995年) | 医療関連サービスマーク認定(院内清掃業務) |
平成16年(2004年) | ISO9001認証取得 |
平成31年(2019年) | 小川明彦、取締役会長に就任 小川和宣、代表取締役社長に就任 |
令和4年(2022年) | 本社移転 |
■事業登録
・建築物環境衛生総合管理業 | 新潟13第914013号 |
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・建築物飲料水貯水槽清掃業 | 新潟56第414063号 |
・建築物ねずみ昆虫等防除業 | 新潟58第514022号 |
・一般労働者派遣事業許可 | 般15-300035 |
・産業廃棄物収集運搬業許可 | 新潟県 第1508036324号 |
・警備業 新潟県公安委員会認定 | 新潟県 第46号 |
・医療関連サービスマーク院内清掃 | 認定番号G(8)1506150604 |
■事業内容
清掃を通じて、建物をきれいにし、人の心を明るくする心身健康な環境づくり
(清掃・設備・警備の総合ビル管理事業)
温浴施設の運営を通じての地域活性プロデュース
(温浴施設・公共施設の運営受託・事業再生支援)
創業者 小川明彦物語
取締役会長 小川明彦
昭和40年(1965年)、稲刈りが終わり、21歳の小川明彦はこの冬の出稼ぎをどうするか思案していた。本当は大学に進学したかったのだが、農家である小川家には経済的余裕もなく、働き手が必要だったこともあり長男である彼は、大学進学をあきらめ、両親と共に日々農作業にいそしんでいた。
この当時の新潟の農家の多くは、冬場は近くで土木作業員として働くか燕の工場で日雇いとして働くことが多かったが、青年小川は思った。
「他のもんと同じように土方してたって、人間的に向上しねし、人と違うことをしたほうがいんじゃねんだか」
調べてみると、公務員の初任給が17,000円の時代に、東京でしっかり働けば月7万も稼げる仕事があることが分かった。世の中は高度経済成長の真っ只中であった。稼げる仕事はいくらでもあった。
小川が見つけたのは、横浜での宅地造成のブルドーザー運転手の仕事だった。この冬の出稼ぎで稼いだお金で妹の大学の入学金と学費を払うことができた。
翌年昭和41年(1966年)の冬は、求人広告の中から探した築地の海苔屋に勤めた。他にも新潟から二人、岩手からひとりが出稼ぎに来ていた。仕事内容は、店頭での海苔の販売と配達、ひまな時は工場で焼き海苔の製造も手伝った。バイクに乗って銀座、赤坂に配達にまわった。
しかし、ブルドーザーの運転手ほど稼げず、ただ配達するだけの仕事に物足りなさを覚え、翌昭和42年(1967年)の冬は、当時高賃金だった自動車工場の期間工に応募した。来る日も来る日もラインに立ってビス止めだけをやる日々。自分が機械の歯車になった気がした。しかし、「金」のためだと思い我慢した。3ヵ月勤務で期間満了の報奨金がもらえるのだ。
昭和43年(1968年)も同じ自動車工場で期間工として働いた。金のためだ。世間は「いざなぎ景気」で低価格の大衆車が飛ぶように売れていた。
昭和44年(1969年)、高校卒業後に経済的事情で大学進学をあきらめざるを得ない替わりにせめてもと行かせてもらった新潟県農業講習所を卒業してから米作りを始めて5年目。米作りにも手ごたえを感じていた。しかしこの年、政府は食糧管理特別会計の赤字の縮小を目的として自主流通米の流通をスタートさせ、減反政策(げんたんせいさく)による米の生産調整(減反)を始めた。米が余り始めていた。米の生産量は昭和42年をピークとして既に減少に転じていた。
25歳になった小川は、天性の直感というようなひらめきで、専業農家から兼業農家への転身を考えていた。
「田んぼをしながら兼業農家として両立できる仕事はなんかねろっか」
農業と両立できる仕事を探して見つけたのが、ボイラーマンの仕事だった。日本有数の印刷工場の施設設備の管理員をしながら、ボイラー技士の受験勉強をして資格を取得した。印刷工場は、きれいな印刷をするために温度と湿度の調整が絶対的に必要とされた。ボイラーマンとして、ボイラーや電気のデータ計測、加湿器、空調機の管理を学んだ。
昭和45年(1970年)、26歳の時にお見合いして結婚した。新婚旅行は大阪万博に行った。この年の冬、新婚夫婦で出稼ぎに出た。この年は昨年と同じ会社の別の印刷工場で設備管理の仕事をした。
昭和46年(1971年)の冬は、地元新潟で設備管理の仕事を見つけた。一人で商業ビルの冬場の設備管理をまかった。朝7時から夜22時まで、毎日休み無しで働いた。そのうち父孫作もボイラー技士の資格をとって、週に1回応援に来てもらった。
この年より、冬場に東京に出稼ぎにでることはなくなった。田んぼの仕事が終わる11月から3月まで新潟県内で父孫作と共にボイラーマンとして建物の設備管理から清掃まで建物管理の経験を積んだ。
昭和53年(1978年)、地元巻町(旧西蒲原郡巻町:現新潟市西蒲区)に、東北電力による巻原子力発電所の建設計画があるという話を聞いた。新潟市の業者数社が組んで既に施設管理を請け負うための会社を設立したという情報も入ってきた。
地元では大きな仕事場ができるという期待感が巻き起こっていた。当時原子力発電所が危険なことなど誰も知らなかった。町の有力者たちは、原子力発電所に新たな雇用を求めた。みすみす町外の業者が仕事を請け負うのなら、地元の自分たちで会社を興して、地元を繁栄させていこうという機運が高まった。
昭和54年(1979年)10月、地元の有力者らが出資し、巻原発の施設管理を請け負うために関越ビル総業株式会社が設立された。この時、施設管理の経験があり実務が分かるとして父孫作が代表取締役となった。60歳であった。小川は、現場責任者となった。35歳のことであった。
その後、巻原子力発電所計画は、1996年の日本初の住民投票で反対派が圧勝し、2003年に東北電力が巻原子力発電所計画の撤回を公表した。
会社設立当初は、建築現場の引き渡し清掃を建設会社から請け負った。小川は現場で先頭に立った。新築現場のガラスにキズをつけてしまったり、薬品を落としたりして、現場監督に怒られながら、建物清掃の経験とノウハウを積んでいった。
昭和50年代、戦後の高度成長期は終わっていたが、日本経済は安定成長を続けていた。新しい建物がどんどん建つ時代でもあった。近隣に建物が建築される情報をつかむと営業に走った。
また、当時まだこの地域ではあまり一般的ではなかった貯水槽清掃やねずみ・衛生害虫の駆除など、地域の建築物の衛生上の維持管理の提案を中心とした営業を展開した。小川の提案営業は功を奏し、新しい衛生サービスとして地域に受け入れられていった。
小川の習性として、いつも新しい何かを始めなければという強迫観念にも似た気持ちの中で、常に新しい仕事を模索し続けた。
昭和58年(1983年)38歳の時に、代表取締役に就任した。その後、ビル管理以外の業務も増えてきていたことから、昭和61年(1986年)に社名を株式会社関越サービスに変更した。そして、翌昭和62年(1987年)に苦渋の決断の末、代々継いできた農業をやめた。百姓としての誇りは忘れないと誓った。
昭和63年(1988年)44歳の小川は、空調設備の保守管理を専門とする株式会社アクスを新たに設立した。昼間は清掃現場で先頭に立ち、夜はアクスの夜間作業に向かった。空調や厨房設備の清掃などは夜間にすることが多い。まわりからいつ寝ているのかと不思議がられる生活が続いた。社長とはいえ、モップを担ぎ、油にまみれて働いた。世の中はバブル景気が始まっていた。
昭和60年の人材派遣法の施行に伴い、ビル清掃の仕事をする中で、お客様からこういうこともできないか、こういう人はいないかと、人の派遣をお願いされることが増えてきた。平成11年(1999年)、関越サービスの介護部門を独立させ、介護スタッフの派遣を中心とする株式会社ケアスタッフを設立した。
この年、創業から20年、お世話になった方々と社員を招いて関越サービスの20周年記念式典を開いた。父孫作は既に鬼籍に入っていたが、母を招待できたことに感無量の思いだった。
皆の前で経営理念について語った。
「地域に貢献する人材を育成し、世の中の役に立つ事業を行う」
そして、55歳になった小川は次のように締めくくった。
「私はリーダーとして、厳しい状況の中で、全社員とその家族が、明るく、豊かな生活を営むために、ひたすら精進し、戦略を練り、工夫し、お客様第一主義を唱い、私信を捨て、あらゆる困難に立ち向かい、情熱にあふれる経営を推進することを、天から課せられた使命だと考え、この道以外に歩かない」
株式会社 関越サービス 創立20周年記念 1999年5月28日 於 岩室温泉 富士屋
株式会社関越サービス社屋変遷物語(2022.07.15)
総務コミュニケーションセンター
総務部長 小川恵美子
関越サービスの社屋は、最初から巻甲5465-4にあったわけではありません。
昭和54年の創業当初は、巻町1区にあった「日進」というガソリンスタンドの二階の一室を間借りして、机一つ電話一台のみでのスタートでした。初代社長小川孫作が営業に廻り、現会長と私が清掃、衛生害虫、貯水槽清掃と現場の仕事をしておりました。次第に仕事も増え、翌55年5月に巻町2区の巻駅近くに10畳くらいのセメント床の部屋を借り、単独の事務所を設けることができました。机一つと、応接セットとは名ばかりのものが置かれ、他には仕事に必要な用具、器械が部屋の片側にあるだけでした。
仕事の幅が広がるにつれ道具が増え、越後線脇の農協の倉庫を借りることになりました。また定期清掃の仕事が増えるにつれ人員も増え手狭になってきました。2区を関越サービスの拠点として6年が経過した頃のことでした。
その頃、巻町東6区に町の所有で使われていない建物があるという情報を得て、調べて購入することにしました。
移転当初は広くて活用しきることができるのかと思っていました。当時、温泉旅館様から全館日常清掃の仕事をいただき、募集したパートさんを前に現会長が入社説明会を実施したことが昨日のことのように思い出されます。
広いと思っていた社屋もまたまた手狭となり駐車場も不足してきたので隣接する農地を買い、新しく木造二階建ての社屋を建てることになりました。
それが「前の事務所」です。
平成元年当時の本社屋
平成元年7月に、それまで事務所としていた建物を倉庫にし、移転しました。巻夏祭りになると、お客様である料理屋様からオードブルを取り、定期班や町外の社員が集まって楽しみました。営業室は、当時は畳敷きで休憩室にしていました。そこからは花火が良く見えました。良き時代でした。
2012年撮影
2012年撮影
平成元年から35年間、会社でのいろんな場面を見守続けてくれたこの建物よ、ありがとう。
令和4年7月19日から、漆山の新社屋に本社が移転となり、そこから新しい関越サービス物語がスタートです。
関越サービスグループの社員の皆様ひとりひとりが主役として、新社屋での物語をつくっていってください。皆様の物語を聞かせてもらうことが今からとても楽しみです。
新社屋外観
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