関越サービスについて


ごあいさつ

ごあいさつ 株式会社 関越サービス 代表取締役 小川明彦

21世紀は、「環境の世紀」といわれています。
地球の温暖化や、酸性雨といった地球規模の環境に限らず、わたしたちに身近な地域環境や職場環境においても、人と地球にダメージの少ない方法を選択していかなければなりません。
わたしたちはこうした問題が深刻化される以前の昭和54年から身近な環境問題を通じて、みなさまに貢献できる業種に着手してまいりました。
たとえば清潔なオフィスを保つ清掃業務や衛生管理。また、IT化社会を確立する上で不可欠な、情報通信機器にたずさわるスタッフの確保や、介護事業の民営化にともなう業務の請負。快適に暮らす上で快適な環境は不可欠です。
わたしたちはこれからも、未来の快適を追求しながら環境にやさしい企業を目指し、お客様の声にお応えしていきます。

株式会社 関越サービス
代表取締役 小川明彦


関越サービスの歩み

昭和40年(1965年)、稲刈りが終わり、21歳の小川明彦はこの冬の出稼ぎをどうするか思案していた。本当は大学に進学したかったのだが、農家である小川家には経済的余裕もなく、働き手が必要だったこともあり長男である彼は、大学進学をあきらめ、両親と共に日々農作業にいそしんでいた。

この当時の新潟の農家の多くは、冬場は近くで土木作業員として働くか燕の工場で日雇いとして働くことが多かったが、青年小川は思った。

「他のもんと同じように土方してたって、人間的に向上しねし、人と違うことをしたほうがいんじゃねんだか」


調べてみると、公務員の初任給が17,000円の時代に、東京でしっかり働けば月7万も稼げる仕事があることが分かった。世の中は高度経済成長の真っ只中であった。稼げる仕事はいくらでもあった。

小川が見つけたのは、横浜での宅地造成のブルドーザー運転手の仕事だった。この冬の出稼ぎで稼いだお金で妹の大学の入学金と学費を払うことができた。

翌年昭和41年(1966年)の冬は、求人広告の中から探した築地の海苔屋に勤めた。他にも新潟から二人、岩手からひとりが出稼ぎに来ていた。仕事内容は、店頭での海苔の販売と配達、ひまな時は工場で焼き海苔の製造も手伝った。バイクに乗って銀座、赤坂に配達にまわった。

しかし、ブルドーザーの運転手ほど稼げず、ただ配達するだけの仕事に物足りなさを覚え、翌昭和42年(1967年)の冬は、当時高賃金だった自動車工場の期間工に応募した。来る日も来る日もラインに立ってビス止めだけをやる日々。自分が機械の歯車になった気がした。しかし、「金」のためだと思い我慢した。3ヵ月勤務で期間満了の報奨金がもらえるのだ。

昭和43年(1968年)も同じ自動車工場で期間工として働いた。金のためだ。世間は「いざなぎ景気」で低価格の大衆車が飛ぶように売れていた。

昭和44年(1969年)、高校卒業後に経済的事情で大学進学をあきらめざるを得ない替わりにせめてもと行かせてもらった新潟県農業講習所を卒業してから米作りを始めて5年目。米作りにも手ごたえを感じていた。しかしこの年、政府は食糧管理特別会計の赤字の縮小を目的として自主流通米の流通をスタートさせ、減反政策(げんたんせいさく)による米の生産調整(減反)を始めた。米が余り始めていた。米の生産量は昭和42年をピークとして既に減少に転じていた。


25歳になった小川は、天性の直感というようなひらめきで、専業農家から兼業農家への転身を考えていた。

「田んぼをしながら兼業農家として両立できる仕事はなんかねろっか」

農業と両立できる仕事を探して見つけたのが、ボイラーマンの仕事だった。日本有数の印刷工場の施設設備の管理員をしながら、ボイラー技士の受験勉強をして資格を取得した。印刷工場は、きれいな印刷をするために温度と湿度の調整が絶対的に必要とされた。ボイラーマンとして、ボイラーや電気のデータ計測、加湿器、空調機の管理を学んだ。

昭和45年(1970年)、26歳の時にお見合いして結婚した。新婚旅行は大阪万博に行った。この年の冬、新婚夫婦で出稼ぎに出た。この年は昨年と同じ会社の別の印刷工場で設備管理の仕事をした。

昭和46年(1971年)の冬は、地元新潟で設備管理の仕事を見つけた。一人で商業ビルの冬場の設備管理をまかった。朝7時から夜22時まで、毎日休み無しで働いた。そのうち父孫作もボイラー技士の資格をとって、週に1回応援に来てもらった。

この年より、冬場に東京に出稼ぎにでることはなくなった。田んぼの仕事が終わる11月から3月まで新潟県内で父孫作と共にボイラーマンとして建物の設備管理から清掃まで建物管理の経験を積んだ。

昭和53年(1978年)、地元巻町(旧西蒲原郡巻町:現新潟市西蒲区)に、東北電力による巻原子力発電所の建設計画があるという話を聞いた。新潟市の業者数社が組んで既に施設管理を請け負うための会社を設立したという情報も入ってきた。


地元では大きな仕事場ができるという期待感が巻き起こっていた。当時原子力発電所が危険なことなど誰も知らなかった。町の有力者たちは、原子力発電所に新たな雇用を求めた。みすみす町外の業者が仕事を請け負うのなら、地元の自分たちで会社を興して、地元を繁栄させていこうという機運が高まった。

昭和54年(1979年)10月、地元の有力者らが出資し、巻原発の施設管理を請け負うために関越ビル総業株式会社が設立された。この時、施設管理の経験があり実務が分かるとして父孫作が代表取締役となった。60歳であった。小川は、現場責任者となった。35歳のことであった。

その後、巻原子力発電所計画は、1996年の日本初の住民投票で反対派が圧勝し、2003年に東北電力が巻原子力発電所計画の撤回を公表した。

会社設立当初は、建築現場の引き渡し清掃を建設会社から請け負った。小川は現場で先頭に立った。新築現場のガラスにキズをつけてしまったり、薬品を落としたりして、現場監督に怒られながら、建物清掃の経験とノウハウを積んでいった。

昭和50年代、戦後の高度成長期は終わっていたが、日本経済は安定成長を続けていた。新しい建物がどんどん建つ時代でもあった。近隣に建物が建築される情報をつかむと営業に走った。

また、当時まだこの地域ではあまり一般的ではなかった貯水槽清掃やねずみ・衛生害虫の駆除など、地域の建築物の衛生上の維持管理の提案を中心とした営業を展開した。小川の提案営業は功を奏し、新しい衛生サービスとして地域に受け入れられていった。

小川の習性として、いつも新しい何かを始めなければという強迫観念にも似た気持ちの中で、常に新しい仕事を模索し続けた。


昭和58年(1983年)38歳の時に、代表取締役に就任した。その後、ビル管理以外の業務も増えてきていたことから、昭和61年(1986年)に社名を株式会社関越サービスに変更した。そして、翌昭和62年(1987年)に苦渋の決断の末、代々継いできた農業をやめた。百姓としての誇りは忘れないと誓った。

昭和63年(1988年)44歳の小川は、空調設備の保守管理を専門とする株式会社アクスを新たに設立した。昼間は清掃現場で先頭に立ち、夜はアクスの夜間作業に向かった。空調や厨房設備の清掃などは夜間にすることが多い。まわりからいつ寝ているのかと不思議がられる生活が続いた。社長とはいえ、モップを担ぎ、油にまみれて働いた。世の中はバブル景気が始まっていた。

昭和60年の人材派遣法の施行に伴い、ビル清掃の仕事をする中で、お客様からこういうこともできないか、こういう人はいないかと、人の派遣をお願いされることが増えてきた。平成11年(1999年)、関越サービスの介護部門を独立させ、介護スタッフの派遣を中心とする株式会社ケアスタッフを設立した。

この年、創業から20年、お世話になった方々と社員を招いて関越サービスの20周年記念式典を開いた。父孫作は既に鬼籍に入っていたが、母を招待できたことに感無量の思いだった。

皆の前で経営理念について語った。

「地域に貢献する人材を育成し、世の中の役に立つ事業を行う」

そして、55歳になった小川は次のように締めくくった。


「私はリーダーとして、厳しい状況の中で、全社員とその家族が、明るく、豊かな生活を営むために、ひたすら精進し、戦略を練り、工夫し、お客様第一主義を唱い、私信を捨て、あらゆる困難に立ち向かい、情熱にあふれる経営を推進することを、天から課せられた使命だと考え、この道以外に歩かない」

ごあいさつ 株式会社 関越サービス 代表取締役 小川明彦

「 株式会社 関越サービス 創立20周年記念 H11.5.28 於 岩室温泉 富士屋 」

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